2020-12-29

2020年もありがとう

 


世界中の人々にとって思いがけず大変な一年になりました。
とまどう、考える、動く、とまどう、考える、待つ・・・、決める、とまどう・・・。
そんな風に過ぎていったけれど、
自分自身のことをもっと詳しく知る、いい機会にはなりました。
 
今年を象徴する画があるかなと、一年間撮った写真を見ていて目に留まったのが
リネンのマスクを縫っているところです。
「手作りしてる人達がたくさん居て皆すごいな。自分にはハードルが高いなあ。」
と思っていたけれど、 
暑さに耐えかねて、なるべく涼しいリネン生地でマスクを縫うことにした5月。

 
今年も一年ありがとうございました。
よいお年をお迎えください。
 

2020-12-13

宝石箱

 
鮮やかななオレンジ色の缶に端整に詰められた宝石みたいな焼き菓子。
手を付けずにずっとそのまま見ていたい可愛らしさだったけれど、
写真パチリして、さっそくおいしくいただいた。
サクサク、ホロホロ、カリカリ。
元気が湧いた!

2020-12-10

BOOK+カフカ変身展 準備

 



キャプション、展示会場掲示物。
キャプションは、悪目立ちして作品のじゃまをしないように、
だけどストレスなく読んで楽しんでもらえるようにと考えながら作っています。



2020-12-07

「そののちに」

 


企画している側の立場でこんなことを言うのもなんだけど(ごめんなさい)、
カフカ著「変身」から着想して作品を制作するのは、
私にとってはかなりハードルが高かった・・・。 
作品自体よりも、この思索の途の方を映像か何かで見せられたら面白いかもしれない、
と思うほど、 昨年から考え続けひねりだすように形にした2点。
タイトル「そののちに」。 
訳あってビッグサイズに作り直したので
重量もそれなりに・・・。


2020-10-19

水を得た魚

 

朝、目が覚めて、空気のひんやり感をあじわうと、にんまりしてしまう。
ああ生き返った~と思う。毎年同じことを言ってる。
 
久しぶりに、伸び切った髪を切ってもらった。
シャンプー台から見える窓の外の大きな街路樹にも
ほんの少しだけ赤と黄色が混じっていた。
 
じりじりの暑さで、茹で魚か焼き焦げ魚になって縮こまるような季節もおわり、
動きやすくなった。
秋は活き活き泳げるといいなあ。
 
 

2020-10-10

尾張の民話「ガックリフミチャン2020」

 

むかしむかし、あるところに、フミチャンという

たいそうなウッカリサンがおったと。

ある日のこと、コインパーキングではらう100円玉がなかったので、

近くのコンビニへいって買い物をすることにしたそうな。

そしてお菓子をひとつ買ったけれど、何も考えずいつものように

クレジットカードで払って出てきてしまったそうな。

あっ!と気づいてコンビニにもどり、こんどこそはとホットコーヒーを買い、

万円札ではらって小銭をつくったそうな。

そんな自分にガックリして、アチャー!とかつぶやいたそうな。

そうして思いがけずできあがったオヤツのセットを食べながら

運転して帰ったんだと。

 

めでたしめでたし。

 

おしまい。


 


2020-09-22

象徴

 

 
久しぶりに人混みを見た気がする。
 
コロナ絡みのことが微かに落ちつき傾向のような、そして皆が対処のしかたにも慣れてきたような、 
でもまだ何ともいえない感じの秋の連休。
暑さもやっとピークを過ぎて、それは誰だって外に出たいと思う。
ワイワイ楽しそうな大勢の人出で、一見普通の平和な光景なのだけれど、 
実際はマスク姿の人々の群れだった。
 
「あの頃ホント大変だったよねえ〜」って笑いあう日はいつなんだろなあ。
ちびっこ達が小さな噴水ではしゃぐ様子が微笑ましい。
平和の象徴のような良い絵面だなあと眺めた。
小さな子ども達もストレスフルにちがいない。
束の間だとしても思う存分飛び跳ねて遊んで帰ってほしい。
 
私も一緒に水の中ピョンピョンしたいと思いつつ写真におさめた。


 

2020-09-17

食べたい季節



  

サンマが不漁だそう。

1キロ当たりの最高値が1万1千円
1キロ当たりの最高値が1万1千円

 

1キロ当たりの最高値が1万1千円

初競りで1キロあたりの最高値が11,000円というニュースだったけれど、

もうこの秋には味わえないのかもしれない。

生態系がガタガタと崩れているのかなあ。

1尾38円で叩き売りになるような年もあって、そんなのを目にすると大変だなあと思うし、

食べられないかもと言われると素直に寂しい気持ちになる。

 

先日サバを焼いた。脂がのって、唇から溢れでるほどのジューシーさだった。

野菜売り場にサツマイモが何種類も並び、

平台の上に赤紫色のグラデーションができあがっていた。

同時に脳内で、甘くねっとりした粒子をモグモグ味わっているのに気づく。

エア・ギターならぬエア・焼き芋。

栗きんとんの製造風景を、例年と同じく「テレビ画面」から眺める。

よーいどん!で始まったような湯気のあがる活気が伝わってきた。

「栗!食べたい!」・・・いとも簡単にマスメディアの思惑にはまる。 

 

こうやって考えてみると、

消費者目線での、とっても食い意地のはった日々の気づきばかりだった。

 

 

 

 

 


2020-05-12

万人にとっての正解とは

 

 

たくさんの制限がある日常がいきなり始まった。

「不要や不急」のことは、ある人にとってはそうでも、 別の誰かにとっては
大切な生業であったりもする。
皆が「いわゆる常識的な範囲」を、こんなにも必死になって守ろうとするのは
初めてのことだ。
正直なところ、どうすればいいのか戸惑う場面が多い。
だって普通に生きていかなきゃいけないわけだから。
 
「うっかり常識からはみ出たように見える」人を、
制裁を加えるように攻撃する人々が現れてしまった。
閉塞感と不安とストレスが、いびつな形となって噴き出る。
いつのまにか市井の誰かを敵に見立てて心の均衡を保つ構図が、
あちこちで見え隠れするようになっている。
そのことが、何よりも心を軋ませる。
同調圧力という見えない暴力が蔓延し、日々が暗い色に染まっていく。
 
ほどよく、なんとかバランスとりながら、嵐が去るまでやり過ごす。
こんなにも難しいことがまだまだ続くんだなあ。
 
 
 
 
 
 

2020-03-20

父とおにぎり




幼い頃、父と二人っきりで観覧車の中でおにぎりを食べた光景を
くっきり鮮明に覚えている。

二人でどこかなんて、たぶんあとにも先にもないと思う

実家のアルバムには、その日父が撮った写真が1枚あった。
縞々模様のとっくりセーターを着て、マジンガーZの遊具にまたがり
難しい顔をした3歳の私がおさまっている。
観覧車の写真はない。

弟が生まれてくる間際の冬の日、父と二人で遊園地に行ったのだそう。
お腹の大きい母がお弁当をもたせて送り出してくれたのだと思う。
連れて行ってもらったことも他の乗り物も全く覚えていないけれど、
並んで座っておにぎりを食べた事実だけが、
大切に胸の中におさまっている。

一周で降りなければならない短い間に、
父は何故おにぎりを出したのか?ということは疑問のままに、
観覧車を見つけるたびに思い出して、
もしかしたら、頭のなかで絵面も描き変わってるかもしれないけれど。
 
こどもにまるで関心のなさそうな父は、私にとって理解するのがむつかしい存在だったけれど、
「ちょっぴりしあわせな思い出もあるんだ」という小さな事実に、
大きく救われて心が凪ぐ自分がいる。


(あれ?もしや、1970年代の観覧車は、
そのまま何周でも乗せてもらえるシステムだったのかなあ・・・・・・?)